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昭和35年4月3日黒沢尻小学校が東と西に分れる
黒沢尻東小学校の第1歩である


 昭和35年4月3日、現在の黒沢尻西小学校の校庭において、黒沢尻小学校が東と西に分かれる「お別れの式」が行われた。2年生以上の2千余に上る児童が、東西に別れて並び、その隊列が順に小学校の門を出て、お互いに別れを惜しみながら、それぞれの小学校へと向って歩いた。この日、黒沢尻東小学校が誕生し、その第1歩を歩み出したのである。
 
 職員は、前日の3月31日に初顔合わせ、早速第1回(?)の職員会議が行われ、さし当り、始業式、入学式までの日程、およびそれにもとずく段取り、作業等の打ち合わせをすませると昼夜をわかたぬ作業が連日続けられた。まさに、生みの苦しみではあったが、それは、明るい希望に満ちたものであった。

 本小学校創立当時の児童数は、男子611人、女子545人の計1,156人。教職員数40。学級数普通学級22、養護学級は1・2年各1で計24学級であった。

 そのうちに、学校のシンボルである校章は公募によってあの大空にはばたくような、スマートで力強い平野勝俊氏の作品が採用され、校歌については作詞を藤井逸郎先生、作曲野崎哲郎先生にお願いし、明るく、はずむような新生の学校にふさわしいものができあがった。

 PTAは入学式翌日の4月8日に創立準備会をもち、4月20日総会、初代会長に鬼柳哲郎氏を選出、以後学校との緊密な2人3脚がはじまる。PTA会報「東風(こち)」も創刊。

 6月修学旅行、9月22日創立記念大運動会、12月24日創立記念式を挙行して校旗を樹立し校歌の披露を行った。

 東西分離にあたっての意見書には両校教育環境の優劣差解消を掲げていたがプールについてはいかんともしがたく1年が経過。父母の強い熱意で簡易ビニールプールを作ることとし、全校児童も和賀川から玉石を運搬するなど、親と子、学校の燃えるような力の結集で36年7月22日には、その落成を祝いプール開きを行うことができた。また、36年、すでに給食施設の整った西小学校の例などを参考に、給食特別委員会を設置し、完全給食実施への取り組みを始めた。12月に至って、市当局、市議会に陳情書を提出、学区内全戸の署名を集めるなど、学区をあげての努力が実って、37年には旧中学校時代の工作室を大改装して給食室とし、同年12月念願の完全給食が実施されるに至った。ちなみに1食単価24円のスタートであった。

 東小学校を新設するに当って、多くの問題点があげられていた。が、教師と父母、学区民が一体となって、おしむことのない努力と献身的な協力によって1つ1つ克服したのである。新設校というきびしい教育営為の中にも楽しさをという斉藤校長は、自ら「東風音頭」を作詞、阿部孝教諭が曲をつけ、振りもできて運動会には会員全員による踊りの輪が出来るなど、父母と教師の絆は一層強いものとなった。

 東西分離という環境の変化で児童の学力低下を心配するむきもあったが、経験豊かで明るく情熱的な教師たちは、子どもたち個々に目を配り1人ひとりの成長を記録する「よい子の歩み」を創り出し、校長の呼びかけに応じて、国語の学習児童の公開研究会を創立初年度の36年2月に行い、続いて翌年には各教科、38年には社会科と毎年学校公開を行い、その実践を世に問いながら、きびしさに立ち向っていた。設備・施設・教材教具すべてに不足な時期ではあったけれども、教師個々の熱意と創意によって克服したのである。このようにして盛り上り、根づいた教育研究の姿勢は変わることなく、県教育委員会指定の道徳教育研究校となって遺憾無く発揮され、44年10月その成果を公開している。図書館教育にも力をいれ、児童の読書意欲の向上をはかって図書館まつりなどの行事も40年頃から催され、学校は逐年その態勢を整えていく。

 東小学校の校舎は、終戦後に建てられた旧黒沢尻中学校の校舎そのままであったため、環境整備には多くの父母の手を必要とした。これに協力をおしまなかったのがPTAで、その基盤は初代会長鬼柳氏を中心に固められていく。校庭の石拾いや植樹は勿論、小鳥小屋の設置、小鳥やひな人形、鯉のぼりの寄贈など学区民、PTA会員の心からの協力で進められた。あの手数のかかるベルマークの収集も行われ、40年には待望のテレビも設置された。中でも、物的な面で大きな支援を下さったのが北上水産の八重樫万蔵氏である。何もない校庭に遊具を、理科教育の一助にと海水産の魚貝類、それを収容する大水槽などの寄贈の他、37年から始めた5年生の気仙沼大島での3泊4日の海浜学校開設に当っては、児童の荷物、食糧、薪等々の運搬に水産のトラックを提供し、内陸の子どもたちに海辺での共同生活の楽しさを十分に味わわせてくれたのである。

 開校に当っての問題点の1つに、子ども達の通学路の安全確保があった。「鉄道踏切りは、陸橋もしくは自動遮断機を取りつける」こと、これが分離の際の要望意見の1つでもあったが、市当局のみでは如何ともしがたい問題であり、国鉄への陳情も通行量の関係などもあって、解決をみることができず、古城場踏切りは、8年間「緑のおばさん」3人のお力にすがることになった。雨風、雪の日も子ども達の踏切横断の安全を見守ってくれたおばさん達本当に有難いことであった。子ども達も大人達に見守られていただけではない。地区ごとの集団登校も開校と同時に始められている。登校時の安全は勿論のこと、地区の父母の連帯感、子ども達に縦のつながりをもたせるなど、色々な目的をもった集団登校であり、現在も続けられ、長い歴史の積み重ねによって、子ども達の生活の中にしっかりと根づいたものになっている。

 このように、東小学校の礎は、学区民・PTAの絶大な協力によって築かれたのであり、その姿は30年後の今日にも受けつがれている。この熱心なPTAの活動が認められ、昭和38年岩手県PTA連合会から表彰され、更に43年には、全国表彰として文部大臣賞も受賞するに至った。前年には学校設備調査実施優良校として、文部大臣賞を受賞したが、これは教育環境・設備改善への努力が認められたものである。

 部分的な改善、補充は行われてはきたが、校舎の老朽化は深刻な問題であった。何しろ、新設校とは言え、使用している校舎そのものは旧黒沢尻中学校当時の建物であり、東小学校開校に当って若干の手直し、化粧直しはしたものの、第1棟は昭和23年、戦後間もない物資不足の中で急拠建てられた木造校舎で、しかも、新規格というのか、従来教室よりも狭い間取りのせいもあってか、強い風が吹けばゆれる建物であったし、その後に建てられた第2、第3棟は大正14年に建てられた諏訪町時代の校舎3度目の移築であった。従って、良い環境のもとで子ども達に教育をという願いは、まず40年から始まった「校地を整える協力金」集めに込められ、700人をこえる会員の理解のもとに3年目には100万円を超える程になった。このような動きの中から校舎改築運動がはじまり、更に、新校舎建設の運動への高まりをみせ、新校舎建設が現実のものとなっていく。第1期工事の着工は42年7月22日。竣工は43年2月2日。旧校舎を取りこわしながらの新築工事であるため、工事は第1期から第4期まで体育館落成まであしかけ4年の歳月を要することになった。第1期が完了して4日後の2月6日西小学校が原因不明の火災で焼失、西小3、4年生を第1棟に迎い入れることになる。狭い校舎に一気に400人を超える児童の収容、2期工事は5月から始まる、解体と新築の中で事故を起こすことなく毎日の教育に取り組んだ教師集団の気苦労はいか程のものであったろう。

 西小の工事は急ピッチに進められ12月9日にはお別れ会をもち机・椅子の移動をはじめ11日に新校舎に移転するが、時を同じくして、東小でも12月10日、11日に3年以上が新校舎に移転している。

 新校舎建設にあたって、校地は西側に15メートル拡張、従来の校庭部分に校舎建設というので、東小学校付近の通学路については、集団登校の徹底をはかり、特に低学年の下校にあたっては教師、父母によって誘導が続けられた。

 工事中といえども、教育活動の一環である諸行事は続けなくてはいけない。43年の運動会は北上中学校のグラウンドを借りることになる。殆んど練習も行えない中での運動会であった。44年は狭くてもということで、校舎とりこわしの跡をブルドーザーで整地し、父母の手で石ひろい、釘ひろいがなされ無事5月18日運動会を終えることができた。不便をかこちながらの4年間ではあったが、新しい校舎に夢を描いて燃えた時期であった。

 尚、44年には、トランペット鼓隊とバトンクラブが結成され、45年岩手国体へむけて練習に励んでいた。

 まさに、創立から10年新校舎落成を見て、勢いのよい芽吹きのときから美しい若葉の時期へと移っていく。

(出典:黒沢尻東小学校30周年記念誌より)