トップページ

  実行委員長あいさつ

  学校長あいさつ

  50周年記念事業 協賛御芳名簿

  記念事業紹介

  「歌」 たらりら (黒東小バージョン)

  30周年記念誌抜粋

  50周年事業の目的・テーマ

  50周年写真集

  50周年広報誌「絆」バックナンバー

  50周年シンボルマーク

  趣意書

  絆募金募集について

  企業協賛募集について

  記念誌の注文はこちら

  実行委員会からのお知らせ

  ちんどん屋通信(東風舎)

  北上・みちのく芸能まつり
   プライベート花火






東西分離へ、英知を集めるPTA
 さて、東西分離の原因となった児童数の推移状況は上の表の如く年々増加の一途をたどりその対応に頭を悩ませられる。遂に33年には470名の4年生を中学校の1棟を借りた分教室へ、更に翌34年には3、4年920名を中学2棟に分離収容せざるを得ない状況となった。全校児童は2,600名を超え、本校、分教室と分かれた状態での教育営為は悩み多いものであった。

 この34年には年度当初のPTAの動きからみても、すでに学校分離は既定の事実化していたが、行政主導をとることなくPTAを中心に進める形をとった。会長佐々木一夫氏は及川慶郎校長と各区をまわって説明し、意見は出せるだけ出させ、話すべきは十分話し合って「国道(旧4号)」をもって境とし、東西2校に分離ということで終止符がうたれた。
児童数の推移状況
年度 児童数 学級数
昭和25 2,206 41
26 2,197 44
27 2,156 44
28 2,196 45
29 2,215 46
30 2,296 47
31 2,364 47
32 2,454 50
33 2,639 53
34 2,668 56
資料は黒沢尻教育百年誌より
29年4月1日町市制施行

 佐々木会長は、黒沢尻教育100年誌の序文に「(前略)……いかに時代の要請とはいえ、80年の歴史を有する学校を2つに分離することは、決してなまやさしいものではなかった。誰かやらねばならぬ。PTAは民主主義のルールに基づき、全く自主的にこの解決に当ろうと決意したのであった。幹事会が何度ももたれ、原案が策定され、特に、学区割りが重大懸案事項で、毎夜のように部落会が持たれて地区民の同意が得られるように配慮された。(中略)……その結果、何の悔いもなしに、何の苦情もなしに、見事に東西両学校が誕生した。」と述べられている。小学校新設の請願書に添えられた「新設に関する意見」をみると、当事者たちの努力と苦労のあとが偲ばれる。以下「意見とりまとめまでの経過」によって分離に至る足跡をたどってみよう。

 昭和34年4月7日、黒沢尻小学校PTA総会は、「学校分離について研究討議を進める」という歴史的決定を行った。これを受けて、5月6日の第1回幹事会では、学校の現況について@学校規模が過大である。A校舎が狭隘である。B本校、分教室分離は経営上好ましくない。ことを確認し、分離についてはPTA自らが、自らの意見をとりまとめ、市教委と協議すべきは協議し、要望すべきは要望して、早急に問題の解決をはかるべきである。そのために特別委員会を設けるべきであることを決定した。6月18日の第1回特別委員会から10月27日の第5回委員会での決定的意見が得られるまで、微に入り、細にわたる研究協議が進められた。

 学校の適正規模(18学級〜24学級といわれる)の観点から3校分離案も含めて討議が開始され、国道(旧4号線、107号線)、鉄道(東北線・現北上線)を境とするブロック別学童数。学級数と特別教室との関係。旧黒沢尻中学校校舎の補修計画等が検討された。この結果、3校分離は理想的ではあるが市財政の現状等からみて早急な実現は困難であるとし、2校分離案で進めることに決して、幹事会の承認を得、学校規模については旧黒沢尻中学校の校舎の状況から、学級数は24学級程度にすることで意見の一致をみた。第5回特別委員会での決定的意見には次のように記されている。

(1) 本家、分家の関係でなく、現在の黒沢尻小学校を解消して、2校を新設するという考えに立つものである。
(2) 学区決定についての基本的要件を次の通りとする。
(イ) 通学距離を考慮すること
(ロ) 行政区を割らないこと
(ハ) 両学区の業態、経済状況等の様相がほぼ同等になるように配慮すること
(3) 上記の要件により、各区の学童数を勘案の上次の通り学区を決定することが妥当であると決定した。

1区〜9区   現黒沢尻小学校校舎 30学級
10区〜15区 旧黒沢尻中学校校舎 23学級(ほかに養護学級3)



 以上を11月5日の第3回PTA幹事会にはかった結果、施設・設備の整備等4項目を追加して特別委員会案を承認決定。更に会員・区民一般の理解を深めるため各区毎に説明会を開き11月20日までに完了すること、及び、最終決定事項に基づく請願書をもって市当局、市議会、市教委に働きかけPTA意見の実現を期することも決定された。早速11月10日夜の2区での説明会を皮切りに21日まで連夜の説明会が続けられ各区の意見を聴取。11月25日、第6回特別委員会を開き、各地区説明懇談会の結果を検討し、最終意見が決定された。なお、最終意見での東小学校の学級数は24、その他養護学級設置も付加されている。ちなみに35年1月に改正された「標準定数に関する政令」によると1学級児童数は最高56名となっている。

 ほかに、最終意見では両校教育環境の優劣差解消のため旧中学校に関して、(1)通学路の安全確保、(2)校庭等の整備・拡張、(3)校舎の整備、(4)施設・設備の整備を挙げ、新設を機会に両校に●完全給食施設●養護学級の設置●精薄学級の設置することもとりあげられている。

 かくして、前述のごとく「何の苦情もなしに見事に東西両校が誕生した」のである。

 創立以来87年の歴史を持つ黒沢尻小学校は、新しい2つの生命を誕生し、その成長を願いながら昭和35年3月31日をもって幕を閉じた。

(出典:黒沢尻東小学校30周年記念誌より)