さて、東西分離の原因となった児童数の推移状況は上の表の如く年々増加の一途をたどりその対応に頭を悩ませられる。遂に33年には470名の4年生を中学校の1棟を借りた分教室へ、更に翌34年には3、4年920名を中学2棟に分離収容せざるを得ない状況となった。全校児童は2,600名を超え、本校、分教室と分かれた状態での教育営為は悩み多いものであった。
この34年には年度当初のPTAの動きからみても、すでに学校分離は既定の事実化していたが、行政主導をとることなくPTAを中心に進める形をとった。会長佐々木一夫氏は及川慶郎校長と各区をまわって説明し、意見は出せるだけ出させ、話すべきは十分話し合って「国道(旧4号)」をもって境とし、東西2校に分離ということで終止符がうたれた。 |
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年度 |
児童数 |
学級数 |
昭和25 |
2,206 |
41 |
26 |
2,197 |
44 |
27 |
2,156 |
44 |
28 |
2,196 |
45 |
29 |
2,215 |
46 |
30 |
2,296 |
47 |
31 |
2,364 |
47 |
32 |
2,454 |
50 |
33 |
2,639 |
53 |
34 |
2,668 |
56 |
資料は黒沢尻教育百年誌より
29年4月1日町市制施行 |
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