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黒沢尻に近代教育の灯
模索を続ける学校教育


明治5年8月、「学制」が頒布されたことで、我が国も近代学校教育の発足をみるに至った。これを受けて、当黒沢尻においても、翌6年5月1日第七区一番黒沢尻小学校(東小学校要覧による)として黒沢尻村里分諏訪町309番地に教員斎藤良右エ門、小澤荘太郎、児童121名(男79、女42)をもって開校された。開校とはいえ独立の校舎を有したわけではなく、民家を借用した模様である。7年には諏訪町318番地、8年には里分92番地に移転、9年4月に至って町分黒沢尻町33番地(現北上警察署の南隣)に校舎を新築移転している。校名も一八番中学区黒沢尻小学校と改称、児童数130余名であったという。

当時、学校の運営は、授業料、学校費としての税金など特別会計でなされたので、校費捻出は容易でなく、住民は重い経済負担を強いられた。従って、国民皆学を目標として発足した学校教育であるが、就学率は仲々上らなかったので、政府は就学率向上のため住民の経済負担軽減を図り、更に、学校の設置も画一的強制によらず地方の実状によって手かげんできるように「学制」を廃し、「教育令」を公布したのが12年9月29日である。世間ではこれを自由教育令と称した。就学年限も最小18ケ月、学区制もやめ、町村単位の公立学校を設けることとした。然し、この自由教育は、そのねらいとは逆にかえって就学児の減少をきたし、地域によっては廃校するところがでるなど学校教育衰退のきざしがあらわれたため、13年12月には「学制」よりも更に中央集権色の濃い「改正教育令」が公布されることになる。これによって就学率は一時向上を見せるけれども17年以来の不景気が深刻化するに及んで学校教育は衰退、地方の教育費の削減を目的に「教育令」再改正が行われ、小学校以外に小学教場も認められた。「改正教育令」で引きしめられた学校教育の普及策はまた後退することになった。

黒沢尻では11年11月に校名変更がなされ「公立黒沢尻小学校」となり、就学者にはその証明ともなる真鍮製の「学牌」と称するものを与え胸部に着用させたということである。

(出典:黒沢尻東小学校30周年記念誌より)